<越前大野城> 福井観光NAVI 抜粋
越前大野城は、天正4年頃(1576)、織田信長より大野郡の3分の2を与えられた金森長近により、
4年の歳月をかけて築城されました。大野城は2層3階建の大天守、2層2階の小天守、二の丸
三の丸があり、外堀・内堀を巡らし城を守っていました。その石垣は、石を立てず、横に寝かせ、
大きい石を奥に押し込んで積む、野面積みという工法で、貴重な史跡といわれています。
現在の城は、昭和43年に再建されたもので、城内には歴代城主の遺品が展示されています。
<銀杏峰>
市の南西部にある銀杏峰(げなんぽ:標高1,440.7m)は、大野市街地からもその姿を望む事が
でき西隣の部子山(ヘコサン;標高1,464 m)と肩を並べ、比較的穏やかな印象を持つ山です。
「銀杏峰」と書いて「ぎんなんぽう」「ぎなんぽう」とも呼ばれ、「銀椀峰」とか「宜南峰」
「銀南峰」と書かれることもあります。 その昔、中腹に銀鉱山があった事から、その名が
ついたのではないかと云われている。
<七間朝市>
大野市の碁盤の目のような通りの七間通りにたつ朝市は、400年以上の歴史を誇っています。
全国的にも珍しい地面に農産物や加工品を並べ生産者とお客さんが楽しい買い物を行える
市です。 毎年春分の日〜大晦日までの朝7時〜11時頃、農家のおばちゃん達が丹精込めて
育てた農産物を路上に並べた青空直売市を行っています。七間朝市は、新鮮な野菜達もさる
ことながら、くったくのないおばちゃん達との大野弁丸出しの会話と、食材に関する調理方法
などの情報交換も、ここを訪れる楽しみの一つです。
<白山平泉寺 / 平泉寺白山神社>
境内は一面に緑の美しい苔で覆われ「苔宮」「苔寺」とも呼ばれますが、現在は明治の神仏
分離令により寺号を廃止し、白山神社となっています。
養老元年(717年)に泰澄(タイチョウ)大師によって開かれたと伝わり、白山信仰の越前側の拠点と
なりました。 平安後期には天台宗比叡山延暦寺の末寺として発展し、最盛期の戦国時代に
は、48社、36堂、6,000の坊院が建ち並び、寺領は9万石・9万貫、8,000人もの僧兵がいたと
伝えられ、当時は日本屈指の宗教勢力であったようです。
天正2年(1574)、織田信長方に属していた白山平泉寺は、越前の一向一揆勢に攻められ全山
が焼失、10年後に一部再興されましたが、境内は元の10分の1程度にすぎず、多くの坊院跡は
山林や田畑の下に埋もれました。 (桂の大木↓)
白山平泉寺の境内は、現在の平泉寺区集落を含む東西約1.2km、南北約1.0kmの範囲と推定
され、平成元年(1989年)から始まった発掘調査によって、当時の遺構がそのまま平泉寺区の
地中に埋もれている事が判明。遺跡の広大さや保存状態が良好であることから、旧境内全域
が国史跡に拡大指定され、名称も「白山平泉寺旧境内」となりました。
泰澄を白山に導いた女神が現れたと伝わる御手洗池や、全山焼失に耐えて残ったと伝わる
大杉など往時の白山平泉寺の姿をしのぶ事ができ、中世の遺跡としては国内最大級の見事な
石敷道や、斜面を階段状に続く坊院群の跡を見る事ができます。
*泰澄(682年7月20日)−(767年4月20日))は、奈良時代の修験道の僧。
加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられ、越(コシ)の大徳と称された。
*カツラの巨樹は、県の天然記念物として指定されている。根回りは、15メートル、樹高約29
メートルあり、堂々たる風格がある。養老元年(717年)泰澄大師が白山登頂の途中この地で
食事に使った箸を大地に挿したのが芽を出し、巨木になったと伝わり神木とされている。
<三角点情報> 国土地理院
*銀杏峰 1440.6m 三等三角点、北大雲(点名) 36°53’
12″ N 136°27′54″E
以上
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