<出雲大神宮>
縁結びで有名な神社。境内には、参拝者がお守りの赤い糸を結ぶ「夫婦岩」や、御神体山の
御影山から湧き出る霊水「真名井の水」などもあり、見どころが沢山あります。真名井の水を
汲みに来る人々で列になることも。本殿は国の重要文化財に指定されています。
<千歳車塚古墳>
全長80m・幅45mの前方後円墳。その独特な形から「車塚」と呼ばれるようになったとされ
ています。国の史跡に指定されています。
<水鳥のみち>
旭町福田〜馬路町稲森にかけ、平の沢池をめぐる周囲の道路(市道川東線)。池にはオニバ
スが自生し、水鳥が戯れます。クロスエリアなど府下有数の探鳥地として整備されています。
亀岡市観光協会HP
<本能寺へのルート>
天正10年5月27日、光秀は亀山城から、現在「明智越」と呼ばれる山道をとおり、京都を見下
ろせる愛宕山に登ります。主君信長から中国出陣の命を受けた光秀が参籠したのは、愛宕
神社の本地仏で軍神と信仰を集めた勝軍地蔵です。光秀は、社前で何度もくじを引いたとさ
れます。翌5月28日に催した連歌会での光秀の発句が、「時は今あめが下しる五月哉」です。
天正10年(1582)6月2日未明、光秀は、京都・本能寺に宿泊していた信長を、急襲しました。
なぜ、光秀が信長を討ったのか、その動機の真相は、明らかではありません。当時は、従来
の権力・権威を否定する「下剋上」の時代でした。光秀も、その渦中にあり、一人の戦国武将
として、主君信長への忠誠と反感の狭間に苦しみ、悩んだのではないかと思われます。
毛利氏との全面対決を意図した織田信長は、光秀に豊臣秀吉への加勢を命じ、これに応
じた明智軍13,000が6月1日夜に丹波亀山城を出発。 進路を突如京都の中心地へと変え、
6月2日未明、ほとんど守備兵のいない本能寺に襲いかかった。 (本能寺の変
Wikipedia)
いずれにしても、本能寺の変は、天下統一という巨大な歴史の歯車の動きと連動し、その後
の日本史に多大な影響を与えた最大で最後の「下剋上」であったといえます。
亀山城から本能寺へはどの道を通ったのか。通常、亀山から京都へ向かう道は、老ノ坂峠を
越える道〔老ノ坂ルート〕が一般的ですが、外にも、いわゆる明智越を通って水尾へ抜ける
〔明智越ルート〕道や、桂川右岸の尾根筋をとって桂へ抜ける〔唐櫃越ルート〕などがあります。
江戸時代に書かれた『信長公記』や『川角太閤記』などは、光秀は老ノ坂を通って本能寺へ
向かったとしていますが、「明智軍記」は、光秀軍は三隊に分れて進軍したと記されています。
ぶらり亀岡HP
<三角点情報> (国土地理院)
*三郎ケ岳: 613.4m 三等△ 点名(寺山) 35°4′28″N、 135°35′1″E
(ピークは北寄りの616m)
*P131.7m; 四△ 点名(塩尻) 35°3′59″N、 135°34′19″E
以上
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