仏徳山(大吉山)


参考地図 (フレーム順:北〜南東)

      〜塔ノ島・宇治公園〜駅              駅〜宇治上神社〜仏徳山〜朝日山〜興聖寺・琴坂〜  

〜天ケ瀬吊橋〜白紅橋(天ケ瀬ダム)〜モミジ谷〜白山神社〜さわらひ橋−喜撰橋・塔ノ島〜  

地理院地図・電子国土Web  Scale  100m

 

付属資料

<<宇治市の概要>>
千年の時を超えて流れる宇治川を中心とした美しい景観と、1994年12月にユネスコの世界遺産に
登録された宇治上神社・平等院をはじめとする豊かな歴史・文化資源に恵まれた宇治は、ある時
は戦乱の舞台として、また別の時代には文化の中心として、常に日本の歴史とともに歩み、発展
を続けてきました。 
そして、古くは「日本書紀」や「万葉集」にもかかれ、世界で最も古い長編恋愛小説『源氏物語』
宇治十帖の舞台にもなっています。源氏物語に関連のある社寺だけでなく、禅宗・黄檗宗の大
本山萬福寺や西国33ヶ所の十番札所である三室戸寺など各時代を代表する数多くの歴史的、
文化的遺産が夫々の時代の息吹を今に伝え、高級茶の代名詞と云われる「宇治茶」の産地です。
                                                  宇治市HP抜粋
<源氏物語と宇治>
源氏物語は、関白藤原道長の娘彰子に仕えた女流作家紫式部(973〜1014)が書いたもので、
全編が54帖から構成される世界的にも有名な古典文学です。 物語の前半は、帝の子に生ま
れ、美貌と才能に恵まれた主人公光源氏が様々な恋愛遍歴を重ね、栄華を手にしながらも人の
世のはかなさに悩む姿が描かれ、後半は、彼の死後に話が移り、没落した貴族の3人の娘たち
「大君、中君、浮舟」と、それをめぐる光源氏の子薫、孫の匂宮との悲恋を綴って終わっています
 物語の最後の10帖〜橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋〜は、
宇治を主要な舞台としてる事で、特に「宇治十帖」と呼ばれ、市内10箇所に石碑があります。

<宇治上神社(うじかみじんじゃ)>
式内社で、旧社格は村社。隣接する宇治神社とは対をなす。ユネスコの世界遺産に「古都京都
の文化財」の構成資産の一つとして登録されている。 創建年代などの起源は明らかではない。
宇治上神社のすぐ近くには宇治神社があり、宇治上神社とは二社一体の存在であった。宇治上
神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、
両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる。宇治上神社の境内外に「天降石」や「岩神
さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もある。

<大吉山(仏徳山)>
「さわらびの道」を宇治上神社から少し東へ行くと登り口があり、約20分で展望台に着きます。
登山道は東海自然歩道になっており、桜、紅葉などの木々が四季折々の風情を見せてくれます。
大吉山展望台の付近には、与謝野晶子誕生百年を記念して、「みだれ髪の会」が建立し宇治市
に寄贈された「与謝野晶子歌碑」があり、大吉山の散策と合わせた観光スポットです。
以上宇治市観光協会HPより
<三角点情報>
*仏徳山; 三等三角点、旭山(点名)、標高131.6m、N34-53-32 E135-48-51 (国土地理院)

<白山神社(はくさんじんじゃ)>
宇治市白川娑婆山にある神社である。金色院の鎮守社として、1146年(久安2年)に加賀の
白山神を勧請したのが始まり。金色院は、焼失、再建ののち衰えるが、白山神社は残った。
白山神社は、790年(延暦9年)に疱瘡が流行した際に、その治癒を願って建てられたと伝え
られる。その後1102年(康和4年)に冷泉天皇の皇后、寛子により白川金色院が建立され、
1146年に白山神社が勧請された。 1995年「京都の自然二百選」の歴史的自然環境部門に
選定される。宇治川から神社までの通称「もみじ谷」は秋にはカエデの群生が紅葉する。
                                           フリー百科Wikipedia抜粋
<宇治川の戦い>
宇治川は京都防衛上の要衝にあたり、史上幾たびかこの川を挟んで合戦が行われた。なかでも
1184年正月20日、源(木曽)義仲、源義経両軍の間に交わされた戦闘がもっとも有名である。
前年7月に入京した義仲は、11月クーデターを断行、政権を掌握したが、他方、後白河法皇の
密旨を受けた鎌倉の源頼朝は、弟範頼、義経に大軍をつけて西上させ、範頼は瀬田へ、義経
は宇治に迫った。 義仲方では志田義広を宇治方面に派遣して防戦したが失敗し、義仲は京都
から敗走の途中戦死した。このとき、義経麾下の梶原景季(かじわらかげすえ)と佐々木高綱
(たかつな)が乗馬のまま渡河を競ったという「宇治川先陣争い」の話は、『平家物語』のなか
でも著名な一節である。                      (日本大百科全書(ニッポニカ)抜粋)

<宇治・おとぎ電車>

1924年(大正13年)に宇治川電気の手で宇治川沿いに志津川発電所が建設された際、発電所に
先だって1920年に建設された大峰ダムと発電所との間を結ぶ3.6kmの資材運搬鉄道が建設され
て使用された。(軌間は610mm、直流600Vの電化鉄道)

戦後になって、この路線を観光用に活用することが立案される。宇治川には「宇治川ライン」
と呼ばれる観光船が1926年より宇治川汽船により就航(1975年廃止、会社解散)していたが、
観光船は堰堤よりも宇治寄りには運行することができず、早くからこの専用鉄道の転用案が
出て、必要な設備の整備が行われ、1950年10月に路線は「おとぎ電車」として開業した。

宇治川ライン回遊コースの片道におとぎ電車を、もう片道に宇治田原自動車のバスを利用する
乗客が多かったため、予想以上におとぎ電車による相乗効果でバスも乗客増となった。
運営は京阪電気鉄道が行ない、車両は凸型車体の電気機関車(25HP×2)に客車7両1編成が
充当された。志津川発電所側は「天ヶ瀬駅」、上流側は「堰堤駅」を名乗り、途中駅はなかった。

おとぎ列車は人気を集め、行楽シーズンの休日には乗り場に乗車を待つ観光客の列ができる
ほどだった。当初は宇治方面からおとぎ電車乗り場までは十分な交通手段がなかった。1953年
京阪は平等院近くの塔の島から電車乗り場までの間にプロペラ船を就航させた。しかし、同年
8月の南山城水害で宇治川の河床や流路が変わり、プロペラ船は運行できなくなり、追い打ち
をかけるように9月の台風豪雨で、おとぎ電車自体が線路の冠水や車両の流失を含む大きな被害
を受け、運行停止状態となった。

台風被害で当時存在していた発電用の大峯ダムに代わる新たな多目的ダム(天ヶ瀬ダム)を建設
する事で、おとぎ電車の線路はほぼ水没する事になる。1960年5月末日に運行の幕を閉じた。
                                             フリー百科Wikipedia抜粋

 

<調査歩行 20/1/10>

京阪・宇治駅

世界遺産・宇治上神社

仏徳山(大吉山) 131.6m

朝日山観音 124m

興聖寺・琴坂

白紅橋と天ヶ瀬ダム(改造工事中で進めず)

天ヶ瀬吊橋(工事中で渡れず)

宇治公園・宇治川先陣ノ碑 (背景は大吉山)

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