参考情報
<御所市 ごせし>
御所市HP抜粋
御所市は奈良県の大和平野の西南部に位置し、金剛山・葛城山が峰を連ねる山麓の東南部の
丘陵地から平野の広がる緑豊かなところです。
5世紀の大和政権を大王家と両頭で担っていた古代豪族葛城氏の本拠地であり、金剛山・葛城山
の麓の高台は、その当時から神々を祀る聖地であったと考えられます。
御所まちは、江戸時代初期に形成された陣屋町です。その後も奈良中南部の中心地として繁栄を
誇ってきました。御所まちは、一つの川を挟んで西岸には商業都市の西御所、東岸は寺内町の
東御所と、二つの町が形成され、江戸時代の検地絵図がいまでも使えるほど、町のかたちはよく
残っています。家々の間を流れる水路(背割り下水)まで、ほぼ当時の姿をとどめています。
伝統的な建物がたくさん並ぶ風情ある街をご覧下さい。
<国見山>
御所市HP抜粋
日本書紀によると、大和を平定した神武天皇は掖上の「ホホ間の丘」に登って国見をされ「妍哉、
国を獲つること(なんと素晴らしい国を得たことか)。内木綿の真乍き国といえども(狭い国では
あるが)、なお蜻蛉(あきつ=とんぼ)の臀占(となめ=交尾)せる如くあるかな(トンボが交尾
して連なっているように山々に囲まれたところだ)」と宣い、これによって日本の国号「秋津洲」の
名が誕生したとされていて、国見山はこの丘の実在の地と言われている。*本州の古代の呼称
ホホ間の丘と言われる山はもう一つ「本馬山」があり、ホホ間と本馬が似ている事から有力な候補
地ですが、残念ながら本馬山は現在登ることができません。
この二つの山はいずれも掖上地域に
あり山から見下ろせる地域は「秋津」と言います。国見山頂(229m)には「ホホ間の丘」の石碑が
建っています。 *全国北海道から鹿児島県まで同名の山は22ケ所以上、近場では枚方市、天理市にもある。
<日本武尊白鳥陵 ヤマトタケルノミコトしらとりのみささぎ> ならリビングcom&御所市HP
古代の日本を舞台に、大和に従わない民族を次々と討伐したヤマトタケル。彼は、アニメや映画
にも描かれている、日本神話の中でも最も有名な英雄ではないだろうか。 東征からの帰り道、
伊吹山で傷を負ったヤマトタケルは大和を目指すが、三重県の能煩野(のぼの・亀山市)で力尽き、
亡くなったとされている。「日本書紀」
によると、能煩野で亡くなった後、白鳥となって飛び立
ち、まず大和の琴弾原、次に河内の古市邑(羽曳野市)に舞い降りた後、天高く飛んでいったという。
日本各地にヤマトタケル縁の地名や伝説が残っている。 「古事記」によると、ヤマトタケルは
能煩野で亡くなる前に歌を詠んでいる。
倭(やまと)は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠(ごも)れる 倭し麗し
*古事記で彼は第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討
を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
白鳥伝説に由来する、三重県亀山市・奈良県御所市・羽曳野市の3市は、「日本武尊・白鳥伝説
所縁の地、御陵のあるまち」という縁から都市間交流の合意書を交わしました。平成11年以降、
白鳥伝説の白鳥が舞い降りた3市間において、歴史・文化を契機とした友好を図り、夢育む街を
めざし幅広い分野で交流を図るため、順に三市交流事業を開催してきました。 今年度は、御所市
で開催します。(2024/11/24) 市民のみなさんのご参加をお待ちしています!
<三角点情報> 国土地理院
* 国見山 △229.2m 三等三角点、点名(原谷) 34°26′38″N 135°45′26″E
* △286.1m 三等三角点、点名(谷山) 34°24′59″N 135°43′55″E
以上
(追記) <天皇家のルーツ>
家樹株式会社HP抜粋
古事記・日本書紀(記紀)によれば神武天皇は日向国(今の宮崎県)から出発。宇佐などを経て吉備に
3年滞在し、大阪、和歌山熊野とまわって上陸。ナガスネヒコとの華々しい戦闘の末大和に入って
紀元前660年元旦に今の橿原市の橿原宮で即位されました。
紀元前585年、127歳で亡くなった等は
現実的ではないため、“記紀通りの神武天皇”という意味ではその実在は否定されるでしょう。
*欠史八代の論点;初代神武天皇と10代目崇神天皇の間の、2〜9代目の天皇は「欠史八代」と呼ば
れ、妻や宮の名、没年齢等以外の事跡の記録がなく、一般的には実在していなかったとの通説です。
*第10代崇神天皇は実在するか:崇神天皇は実在した可能性があるとされている天皇で、この天皇
の頃に大和王権は勢力範囲も拡大し、国家としての形が整い始めたと考えられています。
実在した場合、だいたい3世紀後半頃の人物ではないか、とされています。(年代的には卑弥呼かその
次の世代くらいか) この天皇の時代を記すものは記紀などわずかなものにすぎませんが、注目す
べきは奈良県桜井市にある纒向遺跡(まきむくいせき)の存在です。纒向遺跡は卑弥呼がいた邪馬台国
畿内説の候補地として有名である一方で、当時の大和王権の宮都とする説があるためです。
考古学的にみて大和王権の首都がこの地にあった可能性が高いといわれている事からしても、崇神天
皇の実在性は高いといえるかもしれません。
*第15代応神天皇は新王朝の初代か:応神天皇は、誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、中世
以降は清和源氏や桓武平氏などの武家から軍神八幡神としても信奉されました。今でも八幡神を祭神
とする八幡神社が多く存在していることから身近に感じる天皇ともいえそうです。 この応神天皇が
新王朝の初代とする説が強くあり、実在はほぼ確実ですが、今の天皇家とのつながりがあるのかは定
かではありません。 第16代仁徳天皇(実在の能性のある天皇、応神天皇の第四皇子)
*第21代雄略天皇は実在するか:現天皇家との血のつながりは不明ではありながら、雄略天皇が実在
する最古の天皇とする説も有力です。また雄略天皇は中国の宋書に現れる倭の五王の最後にあたる、
倭王武と考えられています。中国での記録が残る一方、国内史料でも埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘
「獲加多支鹵」(ワカタケル)、熊本県の江田船山古墳出土鉄刀銘「獲□□□鹵大王」と、日本書紀に
見られる雄略天皇の名前「大泊瀬幼武」(オオハツセワカタケル)が一致しています。このことから、
雄略天皇は実在する可能性はとても高い天皇だといえます。
*第26代継体天皇は実在が確かとされている:継体天皇は実在が確かであり、現在の皇室までつながる
天皇家の系統の始まりと考えられています。 第26代継体天皇と第21代雄略天皇の間に系図上のつなが
りはあるのでしょうか。この点、古事記や日本書紀その他の記録類以外に血縁関係の有無を証明する
ものはありません。したがって、継体天皇の当時の大王家との血縁の遠さや、大和に入るまでの期間の
異常な長さ(即位から20年経って大和に入った)から、別系統の豪族が大和に入って王権を簒奪した、と
いった学説は強く存在しています。
*現時点での結論:結局のところ、継体天皇以前のルーツ(男系男子という意味での先祖)を正確に辿る
ことはほぼ不可能といってよいのが現状です。記録がない以上想像の幅は広がりますが、それでも埼玉
県稲荷山古墳鉄剣銘の発見等が現実にあるので、今後の考古学、文献史学の進展を期待したい所です。
*今上天皇:2019年(令和元年)5月1日、皇太子徳仁親王が皇位を継承し第126代天皇徳仁になる。
仁徳天皇から数えても111代目となる。
以上
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