万才山

 

The 250th anniversary of Monthly-walking since 2008

                           参考地図 (フレーム順:西〜北東)                        as11.17

BS〜飛鳥風土記の丘〜平石城跡〜磐舟神社〜

〜高貴寺〜柿ノ木谷分岐〜葛城第24経塚・平石峠⇔万才山〜

〜平石峠⇔万才山〜堰堤〜旧竹内街道〜

〜旧竹内街道〜綿弓塚〜長尾神社〜磐城駅

地理院地図・電子国土Web  Scale  100m

 

付属資料

<近つ飛鳥風土記の丘(ちかつあすかふどきのおか)>

河南町にある府立の史跡公園(風土記の丘)国の指定史跡・一須賀古墳群が保存されている。
昭和40年代に一須賀古墳群が大和団地開発のニュータウン造成によって失われようとしていた
ところを、大阪府が古墳の最も密集している区域29ヘクタールを買収したうえで保存を図った。
一須賀古墳群は102基の古墳があり、そのうち40基を整備し、園路を設けるなどの整備をし、
昭和61年6月に一般開放し、平成6年10月に国により史跡として指定を受けている。この施設
は文化財の一般公開を目的とした史跡公園であり、都市公園ではない。
「風土記」は地誌一般をさすが,文学史では和銅6年(713)の官命に基づいて編纂された各国別
のいわゆる「古風土記」で常陸,出雲,播磨,豊後,肥前が現存。  「風土記の丘」は文化庁の
設置構想に基づいて設置された史跡等の遺跡を中心とする野外博物館・公園。

園内の”近つ飛鳥博物館”は人文科学系の博物館。エリア全体が遺跡博物館ともいわれる陵墓
古墳の宝庫「近つ飛鳥」の中核的文化施設として、1994年に開館した。 古代の国際交流と国家
の形成過程をテーマとする。「黄泉の塔」がそびえる階段状の建物は安藤忠雄の設計。彼自身
の代表作として挙げる作品で、第26回日本芸術大賞他を受賞している。      
Wikipedia抜粋
 
<平石城跡>ひらいわじょうせき

府指定の遺跡、赤阪城の支城の1つで、この地の豪族平岩茂直が元弘元年(1331年)に立てこ
もり、その後正平14年(1359年)楠木正儀がこの城を固め足利勢と戦いました。(河南町HP)
平岩城は、この地の豪族平岩茂直が、楠氏の赤阪挙兵に応じて築いた城である。赤阪城攻略
にむかい関東軍は、平岩峠を越えて大和から河内に進入したが、茂直はこの城によって防戦
した。その後正平14年(1359年)足利勢が河内に攻め入った時、楠木正儀は17の城を整備
してこれを防ぎ、茂直の子茂幸が防戦した。頂上が本丸跡で、本丸の入口両方から谷が迫っ
て首のように細くなっている所が木戸跡である。周囲の山で平になっている所が出丸の跡で
ある。                                     
(河南町教育委員会説明資料)

<竹内街道(たけのうちかいどう)>

堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、葛城市の長尾神社付近に至る約26Km
の日本最古(正確にはこの国が日本と名乗る以前)の街道である。 2017年には大阪で初めて
日本遺産に認定され太子町では春に「太子聖燈会」、秋に「竹内街道灯路祭り」が催される。

両端の難波、飛鳥とも市街地になっていることから、かつて幅30 mあったとされる飛鳥時代の
大道の面影は残されていない。街道沿いには、応神天皇陵、仁徳天皇陵、推古天皇陵をはじめ
とする古墳が多数あることから、物資輸送路、文化伝達路として重要な役割を果たした幹線通
りと考えられている。古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、2つの
古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。長尾街道+より遅れて敷設されたと考えられる。
また、この街道を直線道路として東西に延長すれば誉田山古墳南端の後円部に、大仙古墳の
南東端部の前方部に接して通っていることになる。つまり、この二つの巨大古墳は地図上の
北緯線上に造られていることが分かる。
竹内街道の名は、奈良県葛城市にある竹内集落を通って竹内峠を越えていくことに由来する。
長尾街道+は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道
(オオジ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北に平行して整備された。
                                                       Wikipedia抜粋

<綿弓塚(わたゆみづか)> 
                                        
ナエムラチリ
綿弓塚は松尾芭蕉が江戸時代1684年、この地に泊った(門人・苗村千里の旧里)際に詠んだ句
を記念し1809年に建てられました。 その代表的な句は『綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥』
また司馬遼太郎は母親の実家が近くにあり、幼少の頃に竹内街道の近くで遊んでいたと言いま
す。「街道をゆく」で「長尾〜竹内間は日本で唯一の国宝に指定されるべき道」と書いている。
                                                 
Bus sagasu HP抜粋

<三角点情報>
*万才山 P472.9m: 四等△ 点名(万才山) 34°30′5″N、 135°40′33″E  

*P238.9m; 三等△ 点名(櫻石) 34°29′49″N、 135°38′40″E  

*P249.6m; 四等△ 点名(平石) 34°29′51″N、 135°39′44″E   (国土地理院)


 

<調査歩行 21/1/31>

史跡公園・風土記の丘/ rollover 近つ飛鳥博物館(安藤忠雄氏の設計)

公園から城跡への出口/ rollover 平石(ヒライワ)城跡

磐船神社

高貴寺 (葛城第25経塚があるが、寺内は非公開)

平石峠への径は府道704号/ rollover 葛城第24経塚

P472.9(万才山) 三角点

旧竹内街道/ rollover 綿弓塚 こちら

當麻寺/ rollover 相撲館

(例会時は旧竹内街道を辿り、當麻寺は回避します)

Hi-Trek tan-u Hi-Trek tan-u  ハイトレック淡悠 Hi-Trek tan-u Hi-Trek tan-u