甘南備山

 

参考地図 (フレーム順:西〜東)

BS−尊延寺−大塩中斎碑−氷室台−R307横断〜登り口〜雌山 △202〜甘南備山・雄山〜

〜登山口−高速道下−薪神社−酬恩庵(一休寺)−京田辺駅

地理院地図・電子国土Web  Scale  100m

 

 

                      参考情報

<甘南備山 かんなびやま>              Expedia Ext.

京田辺市薪甘南備山にある独立峰で、山頂は神南備神社のある雄山221mと、雄山から北東に
600m程度の所にあり三角点のある雌山201mの2つに分れる。雌山頂上から南南西に少し下った
所には展望台が設けられており、南は同志社大学京田辺キャンパスや鷲峰山方面、西はポン
ポン山、北は京都市の中心部や愛宕山、比叡山まで望める。

古来、「神南備・神無火」等とも云われ、これには「神が隠れる場所」という意味があるとされる。
神が鎮座する山、神の降臨する山として信仰の対象となり、近世までは女人禁制の山であった。

<尊延寺 そんえんじ>                 
同寺HP抜粋

天平3年(731年 約1300年前)宣教大師が勅願によって建立。本尊 五大明王、木像 中央大聖不動
明王、降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉の各明王をおがむことができる。

徳川家康 伊賀越えゆかりの地;1582(天正10)年「本能寺の変」信長が本能寺で討たれた事を知り、
家康は堺から京都への上洛途中、明智光秀の追討や落ち武者狩りを避ける為、伊賀越えを決断
する。伊賀越えを開始する際にこの尊延寺地区を通ったといわれています。

<大塩平八郎 おおしおへいはちろう>        
ジャパンナッレジ HP抜粋
寛政5-天保8(1793-1837) 江戸後期の大坂東町奉行所与力で陽明学者。1837年2月に大坂で乱を
起こして自殺。父は平八郎敬高,母は大西氏。出生地には大坂天満と阿波美馬郡の2説がある。
幼くして両親を失い,与力であった祖父のあとを継ぐ。幼名文之助,長じて平八郎と称し,諱
(いみな)は正高,のち後素。号は連斎・中軒・中斎。 
大塩平八郎の乱:                        
Benesse HP Ext.
1837年に大阪の元与力大塩平八郎が起こした反乱、大塩平八郎は飢えにあえぐ民衆たちを救う
ために、私利私欲を肥やしていた大阪の豪商を襲って金銭や米を奪いました。 ところが反乱は
1日で鎮圧され、反乱に関わった人たちは厳しく処罰されました。また、大塩平八郎は豪商が
多く住むエリアに火をつけたため、1万世帯以上が焼け出されるなど、民衆にも大きな被害を
及ぼしてしまいます。平八郎は正義感が強い名与力として知られていたようです。キリシタン
の逮捕や悪事を働く役人の糾弾、難事件の解決など、大阪では大きな存在感を示していたと
言われています。私塾では陽明学を教えていた。

尊延寺村に深尾才次郎という大塩平八郎に師事していた人物がいて、大塩平八郎の乱の際に
大塩に加勢するべく村人を集めていました。その村人の一員が忠右衛門です。乱を起こす前
に大塩平八郎が私財を売って窮民に施しをしたとき枚方では尊延寺村と茄子作村が受け取っ
ています。結局乱はすぐに鎮圧されたので尊延寺村の人々が加勢することはありませんでし
たが、それでも捕らえられ吟味中に病死してる人がたくさんいます。 尊延寺の深尾家跡に
大塩平八郎がよく来ていたので「大塩屋敷」と呼ばれていたそうです。

<一休寺・酬恩庵 しゅうおんあん>        
京都南山城古寺の会 HP抜粋
酬恩庵は、禅僧として名高い一休宗純によって1456年に再興されたことにより「一休寺」として
広く親しまれています。ここには、一休の木製の仏像が安置してあります。この木像は、一休が
亡くなる前年に高弟によって造られ、没後一休の髪を植えたとされています。酬恩庵は、境内の
庭園の美しさでも有名で、国指定の名勝とされています。国の重要文化財は10個あり、本堂、
方丈、一休和尚坐像、庫裏、唐門、東司などがあります。
寺伝によると、酬恩庵は、1288年から1293年の間に禅の道場として草創されたのが始まりとされ
ています。1330年前半の兵火にあい衰退してしまいました。しかし1456年に、禅僧として名高い
一休宗純によって再興されました。その後しばらく旅を続け、後に酬恩庵を居とされ、88歳で亡
くなるまで晩年を過ごしました。境内に建てられたご廟所(宗純王廟)に埋葬されています。

1394年京都に生まれた一休は、広く愛されているとんちで、その姿が良く思い出される日本の歴史
上の人物です。これらの話の中の一休の一風変わった言動は、実際におどけているのですが、
禅宗の教義の精神の表れと考えられています。これらの話は、論理的なことが多い禅の発想を持
っているため、思考を凝らす必要があります。 一休は、当時の天皇の落胤と考えられており、
6歳の時に寺院に入門しました。詩の才能を開花させ、その作品は現在も大切に保存されてます。
一休は、有名な高僧のもとで弟子となり禅の修行に励んだものの、公の場以外の禅師としての
方がよく知られています。旅人のようにさすらい、そして鋭いとんちで一休は、いたずらばかり
するとの評判もあり、現在、日本の多くの子どもたから、国民のヒーローとして慕われています。

<三角点情報>                    
国土地理院

*△201.6m 二等三角点、点名(甘南備山) 34°48′44″N   135°44′26″E

*△59.8m 四等三角点、点名(大欠) 34°49′14″N   135°45′14″E

以上

 

 

<調査歩行 24/6/8>

京田辺駅前に立つ「一休さん」

一休寺/酬恩庵 /rollover
薪神社
甘南備山登山口
雌山 △201.6m
神奈備神社/ 雄山
枚方市側への下山ポイントからR307を渡り、伊賀越えの径を辿る
伊賀越えの標がコンビニの隅にある。 次のバス停が尊延寺BS
例会時は逆順に尊延寺BSから氷室台〜山頂〜一休寺〜京田辺駅へと辿ります

 

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