<勝尾寺 かつおうじ>
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箕面市にある高野山真言宗の寺、山号は応頂山。本尊は十一面千手観世音菩薩。西国33所
第23番札所。 開山は開成(かいじょう)、寺号は「かつおじ」「かちおじ」などとも読まれる。
「勝ちダルマ」が有名である。
ご詠歌:重くとも罪には法(のり)の勝尾寺(かちおでら) ほとけを頼む身こそやすけれ
(勝尾寺の草創経緯)伝承によれば、神亀4年(727年)、
藤原致房の子の善仲、善算の兄弟は
この地に草庵を築き、仏道修行に励んでいた。 それから約40年後の天平神護元年(765))、
光仁天皇の皇子(桓武天皇の異母兄)である開成が2人に師事して仏門に入った。
宝亀8年(777年)、開成は念願であった大般若経600巻の書写を終え、勝尾寺の前身である弥勒寺
を創建した。そして、数年後の宝亀11年(780年)、妙観が本尊の十一面千手観世音菩薩立像を
制作したと伝えられている。
開成の僧としての事績については正史に記載がなく不明な点も多いが、北摂地域の山間部には
当寺以外にも高槻市の神峯山寺など、開成の開基または中興とされる寺院が点在している。
(歴史)勝尾寺は平安時代以降、山岳信仰の拠点として栄え、天皇など貴人の参詣も多かった。
元慶4年(880))、当時の住職行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、「勝王寺」の寺号を賜る
が、「王に勝つ」という意味の寺号は畏れ多いとして勝尾寺に差し控えたという。
「日本三代実録」は、元慶4年の清和天皇死去についての記事で、清和天皇が「勝尾山」に参詣
したことを述べており、これが勝尾寺の文献上の初見である。
(中世〜近世)
元暦元年(1184年) 治承・寿永の乱(源平合戦)の一ノ谷の戦いの煽りで全山焼失した。
文治4年(1188年) 源頼朝の命により、熊谷直実・梶原景時によって再建された。
承元2年(1208年)〜承元4年(1210年)にかけて讃岐国への流罪から戻った法然が当寺に滞在した。
応永30年(1423年) 室町幕府第4代将軍足利義持によって将軍家の祈願寺に指定された。
慶長8年(1603年) には豊臣秀頼によって山門が再建され、また本堂再建の為の浄財も寄進された。
江戸時代延宝2年(1674年)、高野山の釈迦文院の末寺となり、宗派を天台宗から真言宗に改めた。
*近年では「勝ちダルマ」の寺として有名である。勝ちだるまが置かれている場所がある。小さい
だるまはどこにでも置ける。
2023年頃から外国人観光客に人気化し、2024年には、多くの外国人が訪れるようになり、バスに
積み残しが出る日も続出したため、2024年9月から土休日は大幅にバスが増発された、特に多く
の乗客が予想される時は2台のバスが用意されたり、2024年秋からバス停の屋根の増築工事
が始まり、勝尾寺のお守り・勝ちダルマ授与所の建物の大きさも倍にする工事が始まっている。
<東海自然歩道>
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東京都八王子市高尾の「明治の森高尾国定公園」から大阪府箕面市箕面の「明治の森箕面
国定公園」までの11都府県約90市町村にまたがる長さ1,697
kmの長距離自然歩道である。
自然遊歩道は、幾つも点在する関係自然公園のなかを通過しており、起点にある明治の森
高尾国定公園や、終点にある明治の森箕面国定公園のほか沿線には、富士箱根伊豆国立公園
(神奈川・山梨・静岡県) 丹沢大山国定公園(神奈川県)
天竜奥三河国定公園(長野・静岡・
愛知県) 揖斐関ヶ原養老国定公園(岐阜県)
飛騨木曽川国定公園(岐阜・愛知県)
愛知高原
国定公園(愛知県) 鈴鹿国定公園(滋賀・三重県)
室生赤目青山国定公園(三重・奈良県)
大和青垣国定公園(奈良県) 琵琶湖国定公園(滋賀県)がある。
東海自然歩道の構想は、1969年(昭和44年)の年頭において厚生省の施策として発表された。
各地方のインフラ整備や都市の過密化が急激に進められ、四大公害病等の高度経済成長の影
の面が顕在化し始めた当時、憩いの場としての自然を見直そうというこの構想は、国民から絶大
な支持を得て、以後これに倣って数々の自然歩道が整備された。
以上
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