疎水神明山


参考地図 (フレーム順:東〜西)

三井寺駅−疎水取水口−乗船場−小関越え−普門寺・高速道下−

−疎水沿い−山科乗下船場−天智天皇陵−

−天智天皇陵〜永興寺〜七福思案処〜

〜神明山 P218〜日向大神宮〜蹴上乗下船場−インクライン−疎水記念館−三条京阪駅

地理院地図・電子国土Web  Scale  100m

 

                            (参考情報)
 

<日本遺産 琵琶湖疏水>     
琵琶湖疏水沿線魅力創造協議会HP抜粋

水量豊かな琵琶湖から京都へと水を運ぶ「琵琶湖疏水」は、大津市観音寺から京都市伏見区
堀詰町までの全長約20kmの「第1疏水」、その北側を全線トンネルで並行する全長約7.4kmの
「第2疏水」、京都市左京区の蹴上付近から分岐し北白川に至る全長約3.3kmの「疏水分線」
などから成ります。 明治期の竣工以来、今なお“現役”で活躍している人工の運河です。

*京都と大津を繋ぐ「希望の水路」
 平安京以来、千年以上にわたって日本の都であった京都は、明治維新における事実上の東京
遷都によって人口の約3分の1が減少し、「いずれ狐や狸の棲家になる」といわれました。
しかし、人々はただ嘆いたのではなく、京都と大津を結ぶ「希望の水路」琵琶湖疏水の建設に、
都市再生の望みを託したのです。

明治14(1881)年、第3代京都府知事に就任した北垣国道は、琵琶湖から引いた疏水の水力で新
しい工場を興し、舟で物資の行き来を盛んにしようと計画しました。 当時の京都府の年間予算
の2倍という、莫大な工事費を要する前代未聞の大事業には、当時最新の技術や知識を学んでい
た若い才能が抜擢されました。工部大学校(現在の東京大学工学部の前身の一つ)を卒業した
ばかりの田邉朔郎(当時21歳)を工事の担当者として迎え、欧米の測量術を学んで実績を積んで
いた島田道生(当時33歳)が精密な測図を作成し、明治18(1885)年に工事が開始されました。

しかし、工事は過酷を極めました。硬い岩盤をダイナマイトで破砕し、つるはしで土を掘り、手提げ
のカゴで運ぶなど、すべてが人力でした。また、トンネル内部はカンテラのほのかな明かりで作業が
進められ、蒸気式ポンプで水を排出していました。
大半の資材を自給自足で賄い、夜には技術者を養成し、昼にはそれを実践するという、努力の積み
重ねとなりました。工事は延べ400万人の作業員を動員し、日本で初めて竪坑(たてこう=シャフト)
を利用したトンネル掘削工法を採用するなど、技術的な工夫を行いながら進められます。トンネル
を掘り進む中で湧き出る大量の地下水など、多くの問題にまされつつも、約5年に及ぶ難工事の
末、明治23(1890)年に第1疏水が完成しました。この頃の日本では、大規模な土木工事は外国人
技師の設計監督に委ねるのが普通でしたが、琵琶湖疏水の建設は、設計から施工まですべての
工程を日本人の手で担った、最初の事例となりました。

                                                     
以上

 

<調査歩行 24/2/24>

琵琶湖岸 /rollover 疎水取水口 (標高約87m)
びわ湖疎水観光船の乗下船場
長等神社 (脇を上ると三井寺・観音堂)
小関越えの峠 (標高200m)  /rollover 峠の地蔵
峠を越えた処にある疎水の第一竪坑 (深さ約50mからも水平に掘り進んだ)
疎水第一トンネル出口 (標高約83m) /rollover 冬場の保守作業
山科疎水の別称 /rollover 天智天皇陵に隣接 (標高約82m)
七福思案処 (大文字山、南禅寺、蹴上方面の径が交差)
P218 御神体の神明山(日御山)
日向大神宮・ひむかいだいじんぐう外宮

田邊朔郎像 (疎水・土木工事の主任技術者として設計監督を担う、弱冠21歳)

蹴上乗下船場 (標高約82m) 〜観光スポット: インクライン /rollover ねじりまんぽ

 

 

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