<飯盛山 いいもりやま> WikipediaExt.
大阪府生駒山地北西枝にある山。大東市と四條畷市にまたがっており、山頂は大東市にある。
標高は314.3m。河内飯盛山とも表記される。
山頂一帯には三好長慶の居城であった飯盛山城の跡があり、現在でもその曲輪跡が多く残る。
楠木正行(くすのきまさつら)と高師直(こうのもろなお)が戦った四條畷の戦いの古戦場でも
あった為、山頂には吉野山の方向を向いている楠木正行の銅像(昭和13年建立)が建っている。
*曲輪(くるわ)とは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭とも書く。
主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を
与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵た
ちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当
する兵たちが駐屯した。
<飯盛山城>
河内国讃良郡飯盛山(大阪府大東市及び四條畷市)にあった山城で、2021年10月国の史跡に
指定された。2017年4月「続日本100名城」(160番)に選定された。
腰曲輪:日本の中世史、中世城郭史を研究する上で、飯盛山城は重要な位置を占める。河内と
大和との間には生駒山脈が南北に走り、これが国境となっている。飯盛山城はその生駒山脈の
北西支脈に位置している飯盛山に築かれている。中世の山城としては、かなり大きな部類に属し
強固な要塞だった。全盛期は南北1200m、東西に500mに達し、70以上の曲輪が確認されている。
<三好長慶 みよしながよし>
戦国時代の武将で、畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。 元は細川
晴元の有力家臣だったが、細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍足利義晴・義輝共々晴元
を京都より放逐し、三好政権を樹立する。 その後は細川氏が支配していた領地を継承・拡充
して三好氏の勢力を畿内の大部分にまで広げ、足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、
時に和議を結び、畿内の支配者として君臨した。織田信長以前の天下人とされる。
<楠木正行 くすのき
まさつら>
南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた武将。楠木氏棟梁。正成嫡男で、正時・正儀の兄。南朝
左衛門尉・河内守・河内国守護・帯刀舎人。 贈従二位。父の正成や末弟の正儀と並ぶ、南北朝
期の代表的名将。「大楠公」正成に対し小楠公(しょうなんこう)と尊称される。
生年や幼少期の実態は不明だが、後村上天皇が即位した翌年の延元5年/暦応3年(1340年)から
史上に現れ、南朝の河内守・河内守護として河内国を統治した。 河内守となって7年間は戦い
を一切行わなかったが、これには、主戦派として幕府と十全に戦うために力を蓄えていたのだと
いう「太平記」史観に基づく旧説と、本来は父の正成・末弟の正儀と同様に和平派であり、幕府
との戦いを好まなかったのではないかという新説がある。
いずれにせよ、興国5年/康永3年(1344年)初頭、南朝の脳髄である公卿・歴史家北畠親房が、
遠征先の東国から吉野行宮に帰還し、興国7年/貞和2年(1346年)末までに和平派の首魁という
説もある左大臣近衛経忠を失脚させて(藤氏一揆)、准大臣として南朝運営の実権を握ると、
正行は、好むと好まざるとに関わらず、幕府との戦いの矢面に立つことになった。
史料に乏しく、軍事的能力を高く評価された武将という以外の歴史的人物像は不明瞭である。
一方、軍記物語「太平記」(1370年頃完)の「桜井の別れ」の物語や、川に溺れた敵兵の命を救っ
たという伝説などが広まったことで、後世には孝子・忠臣・博愛の鑑と見なされるようになった。
救敵伝説は、日本赤十字社草創期に広報活動や教育の材料として用いられた。また明治天皇
から追悼の勅語を受け、従二位を追贈され、大阪府四條畷市の四條畷神社の主祭神となった。
以上
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