小谷山 |
参考地図 (フレーム順:北〜南東) |
〜番所跡〜本丸跡〜京極丸跡〜清水谷分岐〜六坊跡〜山頂〜福寿丸跡〜 |
河毛駅〜△点〜高速道下〜P・追手道口〜番所跡〜 〜山崎丸跡〜清水神社〜河毛駅 |
地理院地図・電子国土Web Scale 100m |
Time Record: 河毛駅(45)追手道口(35)番所跡(20)本丸跡(20)清水谷分岐(30)山頂(50)清水神社(40)河毛駅 Σ240分 約10Km |
付属資料 |
<小谷山> 長浜市の小谷山にあり、浅井(あざい)家が3代にわたって居城としていました。築城は 大永5年(1525)頃で、中世三大山城のひとつで、山(伊部山)から南の尾根筋に築かれた 梯郭式山城で、比高は230mと堅固です。春日山城、七尾城、月山富田城、観音寺城と共 に日本五大山城のひとつになっており、日本100名城、国指定史跡でもあります。 湖北の大名・浅井長政、戦国一の美女といわれた織田信長の妹、お市の方や、その間 に生まれた3人の娘・浅井三姉妹*(茶々、初、江)ゆかりの城です。 *茶々(淀殿)は豊臣秀吉、初は京極高次、江は徳川秀忠の妻(側室・正室)となった。 信長の死後、市は重臣・柴田勝家と再婚したが、秀吉に破れ北ノ庄落城で勝家と自害。 自然の地形を利用して、東西の尾根づたいに各郭が配置され、本丸、大広間跡などから 建物の礎石が出土しました。最頂部の大獄(おおずく、495m)にも土塁が残っています。 清水谷(きよみずだに)には、平時における浅井氏と家臣達の館跡があります。昭和12年 (1937)、国の史跡に指定されています。 (びわこビジターズビューローHP). <三角点情報> *小谷山; 三等三角点、大岳(点名)、標高 494.6m、N36-27-57 E136-16-25 *P-98; 四等三角点、山脇(点名)、標高 98.8m、N35-26-57 E136-15-11 <小谷城の戦い> 1568年、織田信長の妹・お市の方が、小谷城主・浅井長政に嫁ぎます。その後浅井長政 は織田家を裏切ったのです。1570年、激戦となった姉川の戦いの後、佐和山城主・磯野 員昌、宮部城主・宮部継潤、山本山城主・阿閉貞征など次々に浅井家の家臣が織田家に 寝返り、信長は30000の兵を進めて1573年に「小谷城の戦い」となりました。 織田信長は小谷城の正面にある虎御前山に布陣します。1573年8月13日、援軍に来て いた朝倉義景20000の軍勢が前哨戦で敗北し、撤退を開始したところを、急襲しました。 この刀根坂の戦いで朝倉勢は壊滅的な打撃を受け、そのまま織田勢はに一乗谷城まで 攻め込み一乗谷城の戦いにて、8月20日一気に朝倉家を滅ぼしてしまいました。 小谷城に引き返した織田信長は、秀吉勢が京極丸から小丸を攻撃すると、遂に浅井久政 は自刃しました。 本丸で指揮していた浅井長政は暫らく持ちこたえました。 しかし 嫡男・万福丸を家臣に授けて城外へ逃がし、正室・お市の方と、3人の娘(浅井三姉妹)を 羽柴秀吉に引き渡し、8月29日(9月1日とも?)、小谷城の赤尾屋敷にて自刃しました。 織田信長は僅か10日くらいの間に、朝倉家75万石と浅井家40万石の2つを滅ぼした事に なります。浅井長政・浅井久政親子の首は京にて晒され、万福丸は捕縛されると関ヶ原 で磔にされました。浅井家一門の浅井亮親と浅井井規も処刑されています。 その後、羽柴秀吉が12万石にて浅井家の旧領に入り、長浜城を新築したため、小谷城は 廃城となり、現在、清水谷には小谷城戦国歴史資料館があります。(城旅人HP抜粋) |
<例会時スナップ 20/3/21>
小谷山の麓、郡上集落は北国脇往還の宿場街だった |
追手口・登山口、奥に駐車場と中腹への舗装道路 |
番所跡の標、この下までは車も入る舗道 |
虎御前山を俯瞰(織田勢が城攻めに築城し布陣) |
浅井久政・長政親子が自刀し落城(お市の方と三姉妹は秀吉に引き渡される) |
小谷城本丸跡 |
小谷山の頂きには大嶽城址の標 |
西南尾根の福寿丸跡、山崎丸跡を経て清水神社へ下山 (By HS) |
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