田上山・呉枯ノ峰 |
参考地図 (フレーム順:北〜南) |
余呉駅〜乎弥(おみ)神社〜北陸線下〜体育館〜菅山寺登山口〜 |
〜菅山寺登山口〜見返り峠・分岐⇔菅山寺〜田上山分岐〜 |
〜分岐⇔呉枯ノ峰 △531.8〜田上山・砦跡〜 |
〜田上山〜意富布良(おほふら)神社〜木ノ本駅 |
地理院地図・電子国土Web Scale 100m |
参考情報 |
<<菅山寺>
(公益社法)長浜観光協会HP抜粋 菅山寺はもとは龍頭山大箕寺と呼ばれ、当時は法相宗だったが、後に真言宗豊山派となった。 さらに後、道真公が再び繁栄をもたらしたという。 道真公は余呉湖辺の川並村に生まれ6歳 から11歳まで本寺で勉学し、寛平元年(889)から3院49坊の寺院に復興、名も菅公の一字を 採り大箕山菅山寺と改められたと伝えられる。藤原時代から鎌倉時代に最も栄えたようだ。 興福寺の古い記録によると、僧房105末寺70余とあり極めて大きい寺であった。今も山門前に 聳える大木は道真公お手植えのケヤキと伝えられ、滋賀県の自然記念物に指定されている。 かつて納められていた「宋版一切経七千余巻」は徳川家康の命により芝の増上寺へ寄進され、 国の重要文化財に指定されている。現在は無住。麓の里坊弘善館で菅山寺宝物を展示する。 <田上山城(たがみやまじょう)遺構> 「ニッポン城めぐり」HP抜粋 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いの際、羽柴秀吉軍は賤ヶ岳砦、東野山城など幾つもの陣城を 築いた。田上山城はそのひとつで、秀吉の弟である羽柴秀長が布陣した。指揮系統を考える と城塞群の中でも重要で、秀吉軍の実質的な本陣だったと思われる。賤ヶ岳の戦いでの田上 山城での攻防戦は伝えられていない。 西に北国街道、南西に木之本集落を見下ろす、標高323mの田上山山頂に築かれている。西側 正面には賤ヶ岳砦が見え、その尾根筋には同じく秀吉方の大岩山砦、岩崎山砦が築かれて いる。 山頂の主郭を中心として、西側の曲輪、南東側の曲輪、北側の曲輪から構成される。 <意冨布良(オホフラ)神社> 滋賀県神社庁HP抜粋 当社の草創は、飛鳥白鳳期にして、大洞山の霊峰を背にし天武天皇白鳳4年現在地に祀られ る。延喜式制定の時神名帳に、大社なりしが姉川合戦賤獄合戦に文献等殆んど焼失する。 考証するところ隣の田部村、村内の往還道路に鳥居ありて、旅人馬乗して通る時は、必らず 落馬したと伝えられている。こうした崇りを恐れて、大洞山で煙埋したと、今に伝わる。 元禄10年(1698)の記録によれば当山の中腹に、神前神社(猿田彦命)、乃禰神社(八意思兼神) 蟻通神社(大穴牟運神)の3社があり総称して「神宮」「上の宮」と呼んでいた。延喜式神名下に 列挙されている。 天正の頃朝倉義景此処に陣を構え「田神城」と云っていてが織田信長に 攻落され其の時三社も兵火にあったが御神像は、安泰で今の社に合祀した。 大正10年延喜 時代の様式であると、美術鑑査状をうけている。明治初年王布良天王とよび明治6年意冨布良 神社と改称した。明治18年郷社に大正14年県社に昇格、この記念に社務所が大改築された。 <三角点情報> 国土地理院 *P 531.8m 一等三角点、呉枯ノ峰(点名) 35°31’27″ N 136°13′50″E 以上 |
<調査歩行 22/3/28>
JR余呉駅からスタート (近くには余呉湖、賤ヶ岳登山口) |
乎弥(オミ)神社/ rollover 菅山寺登山口 |
ジグザグ径に八十八石像もあり、途中のお地蔵さん |
見返り峠・菅山寺分岐 / rollover 菅山寺へ下る |
山門とケヤキの大木 / rollover 菅山寺 |
呉枯ノ峰 一等△ 531.8m |
田上山への分岐 |
田上山は広々した砦跡 |
意富布良(おほふら)神社 (難読の神社は木ノ本駅東500m) |
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