柳生街道
(大柳生〜滝坂の道)
参考地図 (フレーム順:東〜西南) |
下見:興東館柳生中BS−水木古墳−夜支布山口神社−P261〜高圧線下〜忍辱山BS− |
忍辱山BS−円成寺〜東海自然歩道〜 |
−大慈仙分岐−水道施設−五尺地蔵−峠の茶屋一石切峠〜 |
〜石切峠〜地獄谷石窟仏〜首切り地蔵〜(迂回路・妙見宮)〜能登川− |
−飛鳥中−若宮神社−春日大社−興福寺−近鉄奈良駅 |
地理院地図・電子国土Web Scale 100m |
参考情報 |
<大柳生村 おおやぎゅうそん>
WikipediaExt. 歴史;奈良県北部、添上郡に属していた村。現在は奈良市の東部 1889年(明治22年) 大柳生村、阪原村、大平尾村、忍辱仙村、大慈仙村が合併し添上郡大柳生村 が成立。 1957年(昭和32年) 田原村、柳生村、東里村、狭川村とともに奈良市へ編入される。 地名伝承;村内山口神社の北隣に「柳の森」と呼ばれる小さな森があり、昔天をつくばかりに大き な柳の木があり、大柳生の地名もここから生まれた。 この柳は弘法大師が杖にしていたのをこの 地に挿したのが大きくなったと伝わっていたが、京都の三十三間堂が建立される際、棟木に柳を 用いる事となり、この柳も求められた。 大勢の人を集め運ぼうとしたが全く動かなかったところ、 どこからともなく現れた小人が音頭をとると、するすると動き始めたという。 <夜支布山口神社 やぎゅうやまぐちじんじゃ> 奈良市街地から東の山間部へと続く「柳生街道沿い」の山里「大柳生」地区に位置する比較的 大きな神社で、その創建年代は不詳ですが、大柳生地区の氏神様として平安時代の延喜式に既 に記されていたという由緒と歴史を有する神社。 「山口神社」という呼び名は、その他の奈良県 内の山間部にも数多くみられる名前で、その名の由来としては、朝廷が宮殿などの建物を建立す る際に供出する木材を切り出すにあたり、「山の入り口(山の口)」にお祀りする神様として 設けられた神社となっています。 なお、神社の御祭神は「素盞嗚命(スサノオノミコト)」。 <地獄谷石窟 じごくだにせっくつぶつ> 奈良県ビジターズビューローHP抜粋 滝坂の道から奈良奥山ドライブウェイを越えた辺りの右手にあり、俗に聖人窟と呼ばれています。 岩をくりぬいた岩窟の中に釈迦如来像を中心として、左右に薬師如来と十一面観音、右壁面に 如意輪観音、左壁面に阿弥陀如来坐像と千手観音が刻まれており、所々に美しい彩色の跡が見 られます。平安時代に彫られたものと言われています。 <春日山石窟仏> ならまち風景紀行HP抜粋 春日山石窟仏は、洞窟の中に15体を越える圧巻の石仏たち。 柳生街道の近く、または春日 奥山ドライブウェイの車道から100メートルほど山道を進んだ場所にある大規模な磨崖仏です。 またの名を「穴仏」ともいう春日山石窟仏は、合計18体の石仏(一部は風化などで事実上失 われている状況です。)たちが2つの洞穴に分かれて彫られた形となっており、現在は風化が 著しいこともあり金網と覆屋で保護される形になっています。 <滝坂の道> 奈良市観光協会HP抜粋 柳生街道の前半(奈良市市街地からスタートした場合)にあたるのが滝坂の道。不ぞろいの石を 敷き詰めた石畳がある風情豊かなコースです。石畳は、柳生家が将軍家の剣道師範となり大名 となった頃に街道の行き来を良くしようと改修工事が行われた名残だと考えられています。 滝坂の道には山岳仏教の信仰の対象となっていた石仏がたくさん残されており、今も昔も柳生 街道を行きかう人々を静かに見守っています。凛と澄んだ空気を感じ、川のせせらぎや木々の ざわめきを聞きながら歩むことができるこの道は、いつ訪れても気持ちを清めてくれます。 <三角点情報> 国土地理院 *P261.3m 四等三角点、東部農協(点名) 34°42' 22 ″ N 135°55′44″E *P415.5m 四等三角点、忍辱山(点名) 34°41' 53 ″ N 135°54′46″E *P481.0m 三等三角点、誓多林(点名) 34°40' 53 ″ N 135°53′56″E 以上 |
<調査歩行 23/4/27>
夜支布山口神社 |
忍辱山BS前にある酒店 / rollover 西隣りは円成寺 |
東海自然歩道に入り、新緑の山径 |
水道施設のタンク |
寂れた峠の茶屋 (直ぐ先は石切峠) |
地獄谷石窟 / rollover 石仏 |
首切り地蔵・滝坂の道 |
朝日観音・滝坂の道 |
石畳の滝坂道 |
飛鳥中前にある碑 ”右瀧坂” (破石BSまで15分) |
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