交野山・国見山 |
参考地図 (フレーム順:北〜南) |
〜白旗池東端〜ゴルフ場脇〜国見山〜高速道脇・津田南町1交差点〜津田駅 |
〜旗振山 P344.9〜交野山・観音岩〜白旗池・いきものふれあいの里センター〜 |
−八つ橋〜傍示峠〜旗振山〜 |
私市駅〜月ノ輪ノ滝〜すいれん池・管理事務所〜くろんど池分岐〜展望台〜八つ橋〜 |
地理院地図・電子国土Web Scale 100m |
E-time:私市駅(50)管理事務所(60)八つ橋(30)傍示峠(25)旗振山(45)交野山(60)国見山(60)津田駅 Σ330分/12Km |
付属資料 |
<交野市沿革> 交野に人が住み始めたのは、今から約1万3,000年前といわれます。 縄文時代早期の 神宮寺遺跡や弥生時代の南山遺跡を初め、古墳時代には森地区に大規模集落が形成され (森遺跡)、森古墳群(古墳時代前期)・交野車塚古墳(古墳時代中期〜後期)が築かれる など、交野地方は豪族肩野物部(かたのもののべ)氏の治めるところとなりました。 奈良時代には、交野郡の役所が郡津地区に置かれ(交野郡衙跡)、平安時代には、宮廷人 たちが交野が原を訪れ、狩りを楽しんだことが『続日本紀』や『日本後紀』に記録されて います。室町時代には、河内守護畠山氏の支配下におかれ、その後戦乱の世となり交野地 方も戦渦に巻き込まれました。私部城城主安見(やすみ)氏の名も『信長公記』に登場し ます。江戸時代には幕府直轄の代官と譜代大名の支配下となりました。 明治維新後、河内県、堺県と管轄が代わり、明治14年に大阪府管下となりました。明治22 年市町村制の公布で、交野村(私部、倉治、郡津)、磐船村(森、寺、私市、傍示)、 星田村ができました。 昭和14年に交野村と磐船村が合併して交野町となり、昭和30年、 町村合併促進法の施行で、交野町と星田村が合併し、新しい交野町に。人口わずか1万人 で素朴な農山村の面影を残していましたが、昭和45年10月には3万3,701人を数え、都市的 施設の充実に努めるため、昭和46年11月3日に市制を施行しました。 以来40数年、交野は緑豊かな田園都市として、約8万人の人口をかかえる街になりました。 (交野市HPより) <三角点情報> *P318.7 : 三等△. 点名(三本松2) 34-46-0N、 135-42-11E *旗振山 P344.9: 三等△. 点名(蓮花石) 34-46-51N 135-42-28E (交野山には標識無し、国見山は公共一級基準点に設定されている) (国土地理院) <交野山> 頂上に観音岩と呼ばれる巨岩が一つそびえる珍しい山。生駒山地の北端にあり、巨岩の上 からは大阪・京都方面を一望できる。夜に登れば美しい夜景を見ることができるが岩の先 は崖になっており危険である。また関西文化学術研究都市の地域にも含まれている。交野 市の象徴的な山であり、巨岩の西側(大阪方面)には梵語が刻まれている。健康のために 毎朝登頂するハイカーもいる。 東側は山を切り開いてゴルフ場が作られており、東側の自然景観は失われている。登山道 はコースによっては頂上付近で途切れて一部ゴルフ場の専用道を通るところもある。 (Wikipediaより) |
<調査歩行 20/5/28>
京阪・私市駅から出発 |
府民の森事務所 (左の管理道へ進む、右はくろんど池に至る) |
やまごえの路、みはらしの路を進み展望台 (生駒山など全方位の眺望) |
園地内で一番高い所・鉄塔下の三角点 318.7 |
八つ橋と云う湿地 |
鳥居だけの標 (園地出口の傍示峠を下り、ここから田圃脇を進む) |
旗振山 344.9 (行程で一番高い山頂) |
交野山 341m /rollover |
国見山 284m (枚方八景の津田城跡) |
JR津田駅にゴール |
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