菊水山・鍋蓋山


参考地図 (フレーム順:西〜南東)

鈴蘭台駅〜車両基地横〜尾根コース〜

〜六甲全山縦走路出合〜菊水山(ピストン)〜城ケ越〜天王吊橋〜鍋蓋山〜七三峠〜

〜二本松林道〜猩猩池〜大師道(再度谷)〜諏訪神社〜

〜諏訪神社〜NHK神戸〜生田神社〜三宮駅

地理院地図・電子国土Web  Scale  100m   <行程約6時間、12Km>

 

付属資料

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)

南北朝時代の延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に、摂津国湊川(神戸市中央区・
兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った
後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行した。
菊水の旗を見た直義の兵は
取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正季は奮戦し、良き敵と見れば戦ってその首を刎ね、
良からぬ敵ならば一太刀打ち付けて追い払った。正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦
い、ついには直義の近くまで届き、足利方の大軍を蹴散らして須磨、上野まで退却させた。
直義自身は薬師寺十郎次郎の奮戦もあって、辛くも逃げ延びることができた。 だが、尊氏は
直義が退却するのを見て、「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じた。そのため、
吉良氏、高氏、上杉氏、石堂氏の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとした
ため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かった。
6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、楠木軍は次第に数を減らし、つい
に73騎になっていた。疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込んだ。 正成は自害
しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷が11か所にも及んでおり、ほか72人
もみな同様に切り傷を負っていた。正季が「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と述べる
と、正成も自分もそう思うと同意し、皆に「さらばだ」と別れを告げた。正成は正季と刺し
違えて自害し果て、橋本正員、宇佐美正安、神宮寺正師、和田正隆ら一族16人、家人50余人
もまた自害し、皆炎の中に倒れ込んだ。

息子の正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、正時、正儀らも正成と同じく南朝方と
して戦い、正行と正時は四條畷の戦いで激戦の末に戦死している。正儀は南朝の参議に登り
つめ、(橘氏出身の自称は怪しいとはいえ)約400年ぶりの橘氏公卿となっている。孫の正勝
は南北朝合一(明徳の和約)後も北朝に降らず、応永の乱で反幕府側として参戦し、その時
の傷が元で死亡している。伝説では、正勝は「虚無」という普化宗の高僧となり、虚無僧や
尺八を広めたとされる。また、彼らの子孫も後南朝に属して、北朝を擁する室町幕府と戦った。

南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしま
った。だが、永禄2年(1559年)11月20日、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願
し、正親町天皇の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなった。 ただし、この時点では
「先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから」許されたという形式になっており、
正成に非があるとする汚名の返上にまでは至らなかった。

湊川の戦いや、正成が出陣前に嫡子の楠木正行を本拠地の河内国へ帰した「桜井の別れ」等は、
勝ち目のない戦と知りながら天皇のために忠義を尽くして死んだとして講談などで人気を博し、
戦前の皇国史観教育や唱歌などでも盛んに取り上げられた。 神戸市中央区には、正成・正季
兄弟終焉の地として楠木一族を祭神に祀った
湊川神社があり、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣
楠子之墓」の石碑などが存在する。 (
高速神戸駅から徒歩3分)

太平洋戦争末期の1945/3/21日の九州沖航空戦の際、神風特別攻撃隊第一神雷桜花隊、神雷
攻撃隊(桜花とその母機である一式陸上攻撃機で編成された攻撃隊)は、九州南方沖に迫った
アメリカ海軍高速空母機動部隊に対する攻撃に出撃したものの、敵の艦上戦闘機部隊の迎撃に
より全滅した。この部隊の指揮官であった海軍少佐野中五郎は、鹿屋基地を出撃する際に、
「これは湊川だよ(湊川の戦いのようなものだよ)」と嘆息したと言われている。終戦時の
8月15日には、第五航空艦隊司令長官であった海軍中将宇垣纏が沖縄方面へ特攻を行い戦死
したが、その際の日記『戦藻録』に「余又楠公精神を以て永久に尽くすところあるを期す。
一六〇〇幕僚集合、別杯を持ちあり。之にて本戦藻録の頁を閉ず」を締めくくっており、湊川
になぞらえていた事が分かる。 戦後、東京水交社で行われた海兵四十五期級友会でも、土井
申二(海兵45期)が詠んだ「宇垣纒中将並に十七勇士菊水塔」への献詠の中に「精忠不朽湊川
似」の一節があり、部下からもそのように見られていたのである。

また、正成が考えた作戦を坊門清忠が退け、結果として戦いが敗北に終わったことから、昭和
の軍部における内閣からの指揮を拒否する思潮の論拠のひとつともなった(統帥権干犯問題)。

ウィキペディア(Wikipedia)抜粋

 

<調査歩行 19/6/22>

鈴蘭台駅−菊水山・尾根コース登山口

菊水山・モニュメントと電波塔

城ケ越・岩径を下って天王吊橋を渡る

吊橋下の池から高低差260mの急坂を登って鍋蓋山 486m

二本松林道を下って猩猩池淵へ、大師道(再度谷)を辿る

大師道・稲荷茶屋の下(WCあり)

諏訪神社を下ると神戸市中心部

 

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