参考情報
<能勢妙見山・のせみょうけんざん> Wikipedia抜粋
大阪府豊能郡能勢町にある日蓮宗の寺院。山号は無漏山。本尊は妙見菩薩。妙見山の山頂
付近にあり、北極星信仰の聖地として知られる。
能勢妙見堂、また神仏習合時代の名残で境内入口に鳥居があることなどから、能勢妙見宮
との通称もある。
正式には無漏山眞如寺 境外仏堂
能勢妙見山と言い、能勢町地黄にある真如寺の境外仏堂で
ある。境外仏堂とは飛び地境内にある仏堂の意だが、本寺の真如寺よりもはるかに多くの
参詣者を集めており、関西地区における日蓮宗の寺院等においては重要な位置を占める。
開山以来、真如寺住職が併せて受持していたが、宗教団体法の規定に基づき、昭和16年に
真如寺所属の仏堂となった。なお、山腹にある本瀧寺は妙見菩薩を祀り寺紋も酷似している
が、能勢妙見山とは無関係な天台宗系の妙見宗の寺院である。
(歴史)
当山の歴史は天平勝宝年間(749年 - 757年)に、為楽山(現・妙見山)の山頂に行基が為楽山
大空寺を建立したことに始まるとされる。 平安時代の寛和2年(986年)、妙見菩薩を信仰
していた源満仲が屋敷で祀っていた鎮宅霊符神像(妙見菩薩の別名)を当地へ遷座する。
その後、満仲の孫である源頼国が能勢に移住して能勢氏を称し、この地の領主となると、
当地の妙見菩薩を篤く信仰する。
天正9年(1581年)に明智光秀に攻められた能勢頼次が本拠地の丸山城から当山に移り、山頂の
大空寺の跡地に為楽山城を築いて光秀軍と戦うが、やがて光秀に降伏した。しかし、本能寺
の変で織田信長が光秀に殺されると、そのまま光秀の下にとどまっていた頼次は羽柴秀吉の
攻撃を受け、丸山城は落城した。頼次は為楽山城から脱出して備前国に逃亡したため能勢の
領地を失ってしまった。
その後、頼次は徳川家康の家臣となり慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで活躍したことにより、
再び能勢の地を領地として宛がわれ、頼次は能勢氏を江戸幕府の旗本として再興させた。
頼次は日蓮宗の日乾(後の日蓮宗総本山である身延山久遠寺21世)に帰依し、日乾を新たに
頼次自ら開基として開いた真如寺の開山とした。慶長8年(1603年)には日乾の手によって新た
な妙見菩薩像が彫られるが、これを行基ゆかりの大空寺の趾であり、またかつての自城であっ
た為楽山城の跡地に慶長10年(1605年)に建立した本殿(開運殿)に祀ることとした。こうして
山の名も妙見山と呼ばれるようになった。これが現在の能勢妙見山である。
(信徒会館「星嶺」)
山頂付近には「星嶺」(せいれい)という、当山の寺紋(能勢氏の家紋の切竹矢筈十字)を模った
信徒会館が1998年(平成10年)4月に建てられており、2階の礼拝堂は床が全てガラス張りという
仏教の礼拝堂とは思えない構造となっている。
中には以前は寺院の売店があり、売店があった頃はいつでも自由に内部に入ることができ、
無料休憩所もあったが、現在では礼拝の時以外は立ち入れなくなっており、売店は寺務所の左手
の廃業した旅館に移っている。
売店では簡易郵便局も受託していた。平成19年(2007)5月で一時閉鎖扱いとなった。その後平成
21年(2009)6月に、境内の北側にある特定郵便局であった元・妙見山郵便局の局舎にて再開した。
<三角点情報> 国土地理院
*妙見山 660.1 四等三角点、点名(妙見山) 34°55'
44 ″ N 135°28′2″E
*P444.0 四等三角点、点名(吉川) 34°54'
51 ″ N 135°27′30″E
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