城山・千丈寺山 |
参考地図 (フレーム順:西〜東南) |
〜千丈寺山〜大野坂・鞍部 230m〜砂防ダムx2〜明光寺〜 |
〜城山 (猪ノ口山)〜西の丸〜兵主峠〜千丈寺山〜 |
〜兵主神社〜氷上高校〜駅 黒井駅〜興禅寺〜赤門〜黒井城跡・城山〜 |
地理院地図・電子国土Web Scale 100m |
付属資料 |
<黒井城跡> 兵庫丹波観光ネットワーク推進委員会HP抜粋 中世末期、奥丹波の盟主であった赤井(荻野)氏の居城跡で、織田信長の丹波攻略の際には、 二度にわたって明智光秀の攻撃を支えた城である。 本丸をはじめとする山頂の曲輪群は、 堅固な石垣で囲まれ、三方に伸びる山稜上に城砦群を配して、全山を要塞化したこの城の構 えは、光秀の攻撃を長期に亘ってしのいだその歴史にふさわしいもので、戦国期山城の典型 として高い評価を受けている。 城跡は標高356mの猪の口山を中心に広がり、本城部分は南北に約150mの山頂を削平して、 北から本丸・二の丸・三の丸を段階状に配置している。またその一段下に、これを取り巻くよ うに東曲輪・西曲輪及び帯曲輪を配して防御を固めている。 また、大手口・二の丸・本丸 などの主要部分には石垣を築いているが、いずれも野づら積で、天正期の構築と考えられ、 本丸二の丸からは、今なお部厚い平瓦・軒丸瓦・雁振瓦などが見い出され、かなりの規模の 瓦葺建造物があったことが想像される。 黒井城跡は永禄から天正期の城郭遺構が、その後改変の手が加わることなく良好に残されて おり、城郭史上きわめて貴重な城郭である。 <黒井城の歴史> 赤松貞範(則村の二男)が建武2年(1335)丹波国氷上郡春日部荘を与えられ、山頂に簡素な 城を築いたことから始まるといわれる。赤松氏の後は早くから対立関係にあった荻野氏が城主 となり、荻野正元・荻野秋清らが在城したが、天文23年(1554)一族の荻野直正が秋清を倒し て入城し、悪右衛門と称した。 直正は、赤井一族を統率し、永禄8年(1565)には丹波守護代の内藤宗勝を倒し、氷上郡のほか 天田郡・何鹿郡を制して丹後・但馬にも勢力を拡大した。今日にも見る黒井城の遺構の大半は、 この時期に改修・構築したものであろう。 城主荻野直正は、元亀元年(1570)織田信長より丹波奥三郡の安堵をうけたにもかかわらず、 天正初年以降、逆にこの黒井城を本拠として、反織田勢力の一翼を担い、武田勝頼・石山本願 寺・毛利氏(吉川元春)らと意を通じた。 天正6年(1578)直正は病死し、その子直義の後見 として直正の弟幸家が一族を指揮したが、天正7年(1579)8月9日ついに落城、光秀の丹波攻略 は完了した。黒井城に入ったのが光秀の重臣斎藤内蔵助利三で、利三は下館を陣屋とし、領内 の治安と復興に力を注いだが、この陣屋で利三の末娘として生まれたのが、お福・後の春日局 と伝承されている。 <興禅寺> 「春日局生誕の地」として知られる国指定史跡。徳川家光の乳母として有名な「春日局」は 幼名をお福といい、春日局の名はこの春日の地で生まれたことに由来しています。 お福の父・斉藤内蔵利三は明智光秀の重臣で、光秀が丹波攻めで黒井城を落とした後、その 下館を陣屋に改めました。これが現在の興禅寺で、お福はここで生まれ、三歳までを過ごして います。寺は水をたたえた七軒堀や高い石垣・白壁など、当時の下館の様子をよく残すもの として、国の史跡に指定されています。 境内には「お福の腰かけ石」や「お福の産湯の井戸」などがあり、江戸幕府を裏から支えた 春日局の幼少期に思いを馳せることができます。 <春日局 かすが の つぼね> Wikipedia Ext. 斎藤福(天正7年1579年 - 寛永20年9月1643年)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、 江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、 柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。朝廷との交渉の前面に立つ等、 近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。 (大奥とは、江戸城に存在した将軍家の子女や正室、側室、奥女中(御殿女中)たちの居所) <三角点情報> (国土地理院) *城山 356.8m : 三等△. 点名(城山) 35°10′45″N、 135°6′15″E |
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