小倉山

 

参考地図 (フレーム順:北〜南)

−鳥居本−愛宕念仏寺〜試峠〜清滝・金鈴橋〜試峠〜鳥居本〜六丁峠〜

〜六丁峠〜小倉山〜展望台〜           −落柿舎−二尊院−鳥居本・化野念仏寺〜

〜小倉山〜嵐山公園→阪急嵐山駅               嵯峨嵐山駅→嵯峨公園−

地理院地図・電子国土Web  Scale  100m

 

                      参考情報

<小倉山 おぐらやま>                       WikipediaExt.

京都市右京区にある標高296mの山。桂川の北岸に位置し、南岸の嵐山と相対する。雄蔵山や
小椋山、隠椋山と称されることもある。 小倉山の西麓と南麓は桂川(保津川、大堰川とも)
が流れ、東麓は嵯峨野、北東麓は古くから葬送の地として知られる化野(嵯峨鳥居本地区)。
紅葉の名所で、歌枕としても有名。鎌倉時代の歌人藤原定家が、厭離庵近くの小倉山荘(時雨
亭)で小倉百人一首をまとめたとされる。 現在、常寂光寺や二尊院、厭離庵など時雨亭跡と
される小倉山荘推定地が残されている。
また、小倉山の周辺には「小倉百人一首文芸苑」として公園内等に歌碑が設置されている(亀山
公園・嵐山公園内に49首、二尊院南側の長神の杜地区に19首など)。

*小倉山を詠んだ主な歌

小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ (貞信公「百人一首 第26番」)

忍ばれむ 物ともなしに 小倉山 軒端の松ぞ なれてひさしき (藤原定家)

牡鹿なく 小倉の山の すそ近み ただ独りすむ わが心かな(西行 「山家集」)

夕月夜 小倉の山に 鳴く鹿の 声にうちにや 秋は暮るらむ(紀貫之「古今和歌集」)

**「小倉山百人一首」とは、藤原定家が京都の嵯峨、小倉山の山荘で選んだとされる歌です。
100人の歌人の歌を1首ずつ集めた秀歌集であり、通常は「百人一首」といえばこれを指します。
競技かるたの題材や、教育教材として広く親しまれています。  (by AI)

第一番:天智天皇・38代天皇の「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」

第百番:順徳院・84代天皇の「百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」

<化野念仏寺 あだしのねんぶつでら>         あだしの念仏寺HP抜粋

由来;あだし野念仏寺は京都嵐山の奥にある奥嵯峨の山麓にあります。 このあだし野(化野)の
地は平安時代から葬送の地とされていました。 初めは風葬でしたが、後に土葬となり、人々は
石仏や石塔を祀るようになりました。 寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約
1200年前。 真言宗の開祖である弘法大師空海がこの地に埋葬された人々を祀るため、五智山
如来寺を開創したのが最初とされています。その後、浄土宗の開祖である法然上人が常念仏
道場としました。
現在は浄土宗に属し、正式名は華西山東漸院念仏寺と称し、通称「あだし野念仏寺」として知
られています。

「化野(あだしの)」の「あだし」とは、 はかない・むなしいとの意で「化」の字は「生」が化して
「死」となり、 この世に再び生まれる事や、極楽浄土に往生する願いを示しています。

西院の河原:境内の中央には無縁仏となった古来の人々のお墓を集め安置した場所「西院の
河原」があります。これらはあだし野の山野に散乱埋没していた石仏や石塔です。
明治中期に地元の人々の手によって集められ、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞ
らえて中央に向かう配列で安置し、その中央には十三重の塔・阿弥陀如来坐像を祀っています。

この「西院の河原(さいのかわら)」は「賽の河原」に由来しています。空也上人の地蔵和讃に
”これはこの世の事ならず死出の山路のすそのなるさいの河原の物語… みどり児が河原の石を
とりあつめこれにて廻向の塔をつむ 一重つんでは父の為二重つんでは母の為… ”とあるように、
親より先に亡くなった子供たちは現世の親を想いながら、河原の石を一つ二つと積み重ね小さな
塔を作りますが、鬼が来てその小さな塔を壊します。積み重ねては、崩され、積み上げては壊さ
れます。そこへ地蔵菩薩が現れて子供たちを救います。  
化野の風景が、この有様を想わせることから「西院の河原」と呼ばれることになりました。
以上

 

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