佐和山・弁天山

 

参考地図 (フレーム順:北〜南西)

鳥居本駅−旧鳥居本陣跡−旧中山道−有川薬局−R8横断−

−近江鉄横断−城跡入口〜清涼寺分岐⇔弁天山〜佐和山城跡・本丸〜佐和山△〜

〜△232.4 〜千貫井〜竹林〜城跡登り口−JR彦根駅

地理院地図・電子国土Web  Scale  100m

 

 

参考情報

<旧鳥居本宿>                            彦根観光協会HP抜粋

中山道鳥居本宿は、中山道六十九次(東海道の草津、大津を含む)のうち江戸から数えて六十三番目
の宿場町になります。徳川家康が慶長7年(1602)中山道を整備した時は一旦小野宿に宿継を命じて
います。その後彦根築城による中山道への脇街道のルートから鳥居本に宿が移されました。
天保年間の宿村大概帳によると、鳥居本宿の長さは小野村境から下矢倉村まで13町(約1.4km)と記さ
れています。本陣1、脇本陣2、問屋場1、総人口1,448人、家数は293軒で、そのうち旅籠屋が大小合
わせて35軒あったようです。
鳥居本の名産と云うと3つの赤が挙げられます。赤い丸薬の神教丸、赤い渋紙の合羽と赤いスイカです。


*鳥居本宿・本陣                            
Wikipedia抜粋
本陣は寺村家が務め、脇本陣と問屋は高橋家が務めた。本陣や脇本陣の建物こそ現存しないが、随所
に重厚な家屋が残り、宿場の雰囲気が残されている。
本陣寺村家は合計201帖もある広い屋敷であった。文政12年(1829年)から天保12年(1841年)までの
『寺村家大福帳』によると、本陣宿泊客の状況は、13年間に161回3,594名が宿泊している。1年間の
利用回数にばらつきがあるが、平均で年間利用回数12.4回、1回の平均利用者数22.3名であった。

また1回の利用者数の最多は80名、最小は2名で、実際は50 - 60名がその収容限度であった。参勤交代
の大名の供揃のように200 - 300名に達すると、全員を本陣に収容することはできず、多い時は156軒の
下宿が必要になった。
鳥居本宿は、安芸広島藩・筑前久留米藩・紀伊和歌山藩・阿波徳島藩・出雲松江藩・長門萩藩・美作
津山藩・伊予松山藩などが利用しており、下宿を利用する大通行が年間数回ずつあった。



<佐和山城跡>                            彦根観光協会HP抜粋

佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが
始まりと伝えられています。その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城
は両勢力の境い目の城として攻防が繰り返されました。 戦国時代に入ると、湖北では京極氏に代わって
浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開されることになります。

信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視されました。信長は佐和山城に重臣の
丹羽長秀を配し、信長自身も佐和山城を近江制圧の拠点として利用しました。秀吉の代も、堀秀政、堀尾
吉晴そして五奉行筆頭の石田三成の入城と、佐和山城に重きを置く姿勢は変わりませんでした。

佐和山城は次第に整備され、天正18年(1590)石田三成が佐和山城主となってからは、五層の天守を構え
鳥居本を大手とする城でした。また、三成の時代には山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸
などが連なり、山下は東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷・足軽屋敷・町屋
などの城下町がすでに形成されていました。  その後、関ヶ原の戦いで敗れ、彦根城築城にともない廃城
となりました。その際、石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれました。

現在はわずかに「佐和山城跡」の看板が往時を物語るだけとなっております。また、山頂までのハイキング
コースが整備されており、山頂からは彦根城や琵琶湖等が一望できます。

以上

 

<調査歩行 25/12/13>

近江鉄道フジテック駅(エレベータ製造会社)
旧中山道・摺針峠 / rollover 望湖道跡
旧中山道脇に”旅人の像”
旧道脇の有川薬屋 ”赤玉神教丸本舗”
旧中山道 /rollover 鳥居本・本陣跡
近江鉄道鳥居本駅
合羽所”松屋” (雨具を求めて木曽路へ向った)
弁天山・清涼寺・佐和山との分岐点
佐和山城址
佐和山三角点 232.4m
登山口 /rollover 彦根駅・東口

 

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