藤白峠・拝ノ峠

 

参考地図 (フレーム順:北〜南〜西)

駅−一の鳥居跡−鈴木屋敷−藤白神社〜一丁目地蔵〜

〜藤白坂〜筆捨松〜藤白峠〜藤白塔下本王子跡・地蔵峰寺〜ミカン畑〜

−R166横断−橘本神社(所坂王子)−市坪児童会館−山路王子神社−一壷王子)〜

−山路王子神社(一壷王子)−沓掛ノ急坂−沓掛児童会館〜拝ノ峠〜

−拝ノ峠−蕪坂塔下王子−  (予定コース:小畑−長保寺−下津駅)

−急坂−爪書地蔵−山口王子−R164−

−R164−踏切−JR紀伊宮原駅

YAMAP & 地理院地図・電子国土Web  Scale  100m


例会時スナップ 2026/3/21

鈴木屋敷 (全国の「鈴木」姓発祥の地)
藤白神社の大楠
藤白坂の竹林
藤白坂・筆捨松 (向かいに硯石、離れて宝篋印塔が並び、峠を越える)
藤代塔下王子・地蔵峰寺
蜜柑畑内の急坂も通る
橘本王子
橘本神社 (橘本王子の奥)
一壷王子 (山路王子神社、土俵がある)
拝ノ峠直下の標 (右手へ長保寺・JR下津駅→あるも、蜜柑畑入り口や小道は閉鎖)
熊野古道を下って、蕪坂塔下王子〜山口王子へ進む
JR紀伊宮原駅に到着 (海南駅から6時間20分、約15Kmの行程)

 

 

参考情報


<紀伊路 きいじ>                       Source:Wikipedia

古くは紀路(きじ)とも云い、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。 淀川河口の渡辺津(摂津国)から
一路南下、和泉国を経て、雄ノ山峠を越えて紀伊国に入り、紀伊田辺からは大塔山地周縁部を東進して
熊野本宮大社に至り、熊野速玉大社・熊野那智大社を結ぶ。 近世までに紀伊田辺以東の部分が中辺路
(なかへち)の名で区分されるようになった。

紀伊路は畿内と熊野三山を結ぶ参詣道である。熊野古道の中では、伊勢路と並んで「梁塵秘抄」に詠われ
たように最も古くから知られた道であるが、摂津国・和泉国では和泉山脈・葛城山脈に、紀伊国では紀伊
山地と紀伊山地に源流をもつ河川に制約され、決して容易ではない困難な道であった。
*「梁塵秘抄」(りょうじんひしょうは、平安時代末期に後白河法皇が編纂した日本最古の歌謡集で七五調
の歌詞が約500首以上収録されている)

そのような困難な道であるにもかかわらず、紀伊路は7世紀以降、熊野三山への参詣道として正式なルート
として認識され、京の院や貴族による参詣の隆盛を見た。のみならず、こうした院や貴族による参詣を中心と
する平安末期から鎌倉初期にかけての中世熊野詣は徒歩が原則とされ、九十九王子への巡拝が行われた。

中世熊野詣は、承久の乱において主たる担い手であった院が没落し、院の後ろ盾を得つつ熊野三山を統括し
てきた熊野別当家が勢力を衰えさせたことで終焉を迎えた。以降、熊野参詣の主たる担い手が東国武士や
有力農民にシフトするにつれ、メインルートとしての地位を失った紀伊路の性格も変容し、西国三十三所の
巡礼道に組み込まれるに至った。熊野参詣は依然として失われたわけではないが、中世熊野詣のような参詣
儀礼は失われ、また困難な箇所を回避するための派生ルートが設けられた。摂津や和泉では熊野街道とも呼
ばれたように、紀伊路は幹線道路として沿道住人の生活道路であり、政治・経済上の役割をも担っており、
近代以降の国道整備においても、紀伊路のルートがしばしば踏襲された。

淀川河口の渡辺津を発った紀伊路は、和泉山脈から派生した和泉丘陵先端部の湧水帯線沿いに紀州街道と
ほぼ平行して進み、今日の阪南市付近で丘陵越えに方向を転じる。同じく丘陵越えに転じた紀州街道と合流
して雄ノ山峠を越えて紀伊国に入る。紀ノ川で中央構造線を南に越えると、そこからは紀伊山地から派生し
た地形が続き、紀伊山地に源流を持つ紀ノ川・有田川・日高川といった河川を渡りながら紀伊田辺に着く。
田辺からは東進し、岩田川河谷を経て滝尻からは大塔山系北縁部を東進して熊野本宮大社に至り、熊野速玉
大社・熊野那智大社を巡拝する道へ進む。

紀伊路は信仰の道であるだけでなく生活の道でもあり、近代以降においても利用され続けた。しかし、より
容易かつ自動車の通行が可能なルートが開削されるとともに幹線から外れ、集落の中を通っていた道も旧状
を失ったり、道ではなくなった箇所も少なくはない。
しかし1978年(昭和53年)に文化庁により大阪府・和歌山県の熊野参詣道、すなわち紀伊路が「歴史の道百選」
に選定されたことを機に、改めて紀伊路のルートと歴史に関する調査結果が集成された。またこの調査から
派生して、旧状をまとまってよくとどめられている田辺市中辺路町以東の紀伊路はルートの復元と整備が行
われたことにより、不完全であるにせよかつての参詣道をたどることが可能になっている。


<鈴木屋敷 すずきやしき>                 Source:Wikipedia

海南市の藤白神社境内に在り藤白鈴木氏の旧宅で、国の史跡に指定されている。 熊野信仰を広めた神官
の一族である藤白鈴木氏のかつての屋敷であり、全国で二番目に多い「鈴木」姓発祥の地とされる。

「鈴木屋敷復元の会」によると、藤白鈴木氏がこの一帯に屋敷を構えるようになったのは平安時代末期1150
年頃で、現存の建物は江戸時代後期頃に建てられたとされる。また邸内には、室町時代末の作とされる日本
庭園「曲水園」が今も残る。 1942年に最後の当主が病死し、藤白鈴木氏の嫡流が断絶した後も、屋敷は残
され、次第に老朽化や台風被害が目立ち、復元構想は何度となく浮上するも膨大な工事費用がネックとなる。

2013年5月22日に開催の第7回全国鈴木サミット&鈴木フォーラムにおいて、全国に200万人ほどいるとされる
「鈴木さん」に、朽ち果てた屋敷復元のための寄付が呼びかけられた。自動車メーカースズキの鈴木修会長
もフォーラムに参加し、「スズキの海外進出」と題した基調講演を行った。 2015年に、屋敷を含む神社境内
などが国史跡に追加指定されたことを受け、海南市教育委員会が周辺一帯の保存活用計画を文化庁に提出。
屋敷を文化財として復元することが可能になり、総額約1億5000万円とされる事業費の約6割を国、県、市が
負担する事になる。残りの6000万円ほどは神社負担となる為、その分に充てるため関係者が企業版ふるさと
納税に注目し、2019年1月から募集を開始した。 復元は、屋敷を描いた江戸時代の地誌「紀伊国名所図会」
を参考とし、同年中に解体工事を実施して、2022年5月14日には上棟式が挙行され、2023年3月に復元した。
建物内には、鈴木氏や熊野古道に関する資料を展示する施設を設けられ、講演会などにも利用される。

                    
以上

 

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